みんながこぞって作っているようだ。
ネットでの配信が盛んになってからではないだろうが、CDの売り上げ
枚数は下がってきているそうだ。
店に行くのではなく、インターネットで簡単にダウンロードする。
手軽だし、好きな時に手に入れられ、楽になっただろう。
在庫と言う物を作らなくても良いから、レーベルの方も
コストダウンが出来るのかもしれない。
一番確実に売れるのがコンピレーションアルバムだった。
いろいろな人の唄を寄せ集めて、テーマに沿って作るベスト盤のような物。
CDが売れないと言われる時代で、コンピだけはとりあえず
計算が出来るものらしい。
これは、ヒット曲や馴染みの曲を集めているから、聴く方にとっても
楽しかったりする。
昔は、自分でレコードから1曲ずつ録音して、自分にとっての
ベスト盤をカセットで作った物だった。
今は、コンピューターに取り込んで作れるから、かなり簡単になったし、
いちいち掛けなくてもデーターとして処理できるからスピードも速い。
だけど欲しい曲を全部持っているわけではないから、レコード会社が作った
コンピレーションアルバムが売れるのだろう。
自分では考えなかった曲も入ってくるのも楽しみなのかもしれない。
それが最近は、カバーと言う形に変化してきたのだろうか。
急にカバーアルバムの発売が増えてきた気がする。
カバーそのものは昔からあった。
特に外国の曲の日本語カバーは、英語のわからない人にも良かったし、
日本の曲とは違う感じが新鮮だった。
人に楽曲提供した人が、自分で歌うと言う「オリジナル」という形の
カバーもあった。
「中島みゆき」や「来生たかお」などである。
これはこれで、曲を作った人が歌うので、本当はこんな感じに
歌いたかったのかと言う面で面白かった。
徳永英明が出した「ヴォーカリスト」のシリーズは女性ヴォーカルの曲
だけを選んで、徳永英明の繊細な声で歌うと言う物で、
今のカバーブームの火付け役とも言えるだろう。
徳永英明の独特の声と女性ヴォーカルのイメージが上手くマッチしていた。
一方で、同じような企画となる稲垣潤一の「男と女」シリーズは、
女性ヴォーカルの曲を使うところは同じだが、こちらは
女性ヴォーカルとのデュエットという形式を取っている。
(稲垣潤一のオリジナル曲も含まれるが)
元々デュエットではない曲を、稲垣潤一と女性が歌う事で
新しい雰囲気を作り出している。
この二人に共通するのは、二人ともかなり声が高いと言う事と、
バラードシンガーのイメージがあることだろうか。
女性の曲に無理なくイメージを重ねる事が出来る。
ここ最近では、とにかくやたらとカバーが多い。
日本人同士のカバーが目立つ。
しかも、ついこの前流行っていた曲のカバーも多い。
カバーそのものが悪いとは言わないが、ここまでカバーばかりが
目立ってくると、ちょっと閉塞感を感じる事もある。
今やっているカバーは、以前に誰かが歌ってヒットした物。
殆どみんな聞いた事のある曲ばかりだ。
耳に馴染みがあるという事は、それだけで売れる要素を秘めている。
そのカバーしている人も売れている人なら、カバーされている人も
売れている人なのだ。
となれば、作った時点である程度売れるということがわかって
いるような物。
そこに何やら商業的な違和感のような物を感じてしまう。
勿論、カバー曲は違う人が違う声で歌うので新しい発見もあったり、
まったく違う新しい曲に聞こえる事もある。
それを否定しているのではない。
ただ、やたらとカバーアルバムが出ているこの時代に、
クリーエーターとしての未来が薄らいでいるようで淋しい。
今の時代の閉塞感が、歌の世界にまで広がってきてしまったのかと思う。
新しい物を作るより、とりあえず過去にあった物を利用して、
安全な方へ一旦非難するような、例えは悪いがそう感じる。
冒険やチャレンジはしない。
前に進むより、今の時点で一旦清算するような。
誰かの名前や力を借りて風が吹くのを待っている。
個々のアルバムを非難しているのではないです。
カバーに頼っているような風潮を嘆いているのです。
特に今時代を引っ張っているようなアーティストには、
オリジナルで頑張って欲しいのです。
もはやあらゆる音は出尽くして、どんな音も過去の何かに
似ているなどと言われてしまう程の時代になっています。
でも、その人にしか出せない音はまだ残っているはず。
そこに人々は楽しみ、感動するのではないでしょうか。
これは、僕にとっても“天に向かってつばを吐く”と言う事に
なりますが、クリエーターである事はそう言うものだと思います。
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